中日猫谚语论文

热门资讯  点击:   2020-03-29

中日猫谚语论文篇一

日本猫的谚语

中日猫谚语论文篇二

中日谚语分析

中日谚语分析

中日谚语之间的关系大致分成两种:

1、直接把中国的谚语翻译成日文。如:“百闻不如一见”——「百聞は一見に如かず」

2、中日两国的谚语各不相同,但其含义相同。如:“歪打正着”——「怪我の功名」 对第一类不必做任何解释,而对第二类,则有时要进行必要的说明。还有一些很难找到合适的对应谚语,但它有特别之处,也适当地进行介绍。

第一类

青出于蓝而胜于蓝”——「青は藍より出でて藍より青し」(あおはあいよりいでてあい

よりあおし)

光阴似箭——-「光陰矢の如し」

一年之计在于春——「一年の計は元旦にあり」

滴水穿石——-「雨だれ石を穿つ」(あまだれいしをうがつ)

只知其一,不知其二......「一を知り二を知らず」(いちをしりてにをしらず) 一叶落知天下秋——「一葉落ちて天下の秋を知る」

一年之计在于春——「一年の計は元旦にあり」

岁月不待人——「歳月人を待たず」(さいげつひとをまたず)

养子方知父母恩——「子をもって知る親の恩」

知子莫若父——「子を知ること父に如くはなく」(しく)

千里之堤溃于蚁穴——「千里の堤も蟻の穴から。」(つつみ)

条条道路通罗马——「すべての道はローマに通ず。」(つうず)

脍炙人口——「人口に膾炙する」(じんこうにかいしゃする)

笑里藏刀——「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり)

前门拒虎,后门进狼——「前門の虎、後門の狼」

千里之行,始于足下——「千里の道も一歩より起こる」

笑里藏刀——「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり)

流水不腐,户枢不蠹——流れる水は腐らぬ(ながれるみずはくさらぬ)

快马加鞭——駆け馬に鞭(かけうまにむち)

恩将仇报——恩を仇で返す(おんをあだでかえす)

子女不知父母心——親の心子知らず

照猫画虎——猫を真似て虎をかく

一丘之貉......一つ穴の狢.(ひとつあなのむじな)

放虎归山——虎を野に放つ(とらをのにはなつ)

逐二兔者不得其一(鸡飞蛋打)......二兎を追う者は、一兎をも得ず(にとをおうもの

はいっとをもえず)

千里之堤溃于蚁穴——千里の堤も蟻の穴から(つつみ)

画饼充饥——絵に描いた餅(えにかいたもち)

雨后春笋——雨後の筍(うごのたけのこ)

一箭双雕......一石二鳥(いっせきにちょう)

鹬蚌相争,渔翁得利——鹬蚌の争い、漁夫の利となる(いっぽうのあらそい、ぎょふの

りとなる)

一将功成万古枯......一将功成りて万骨枯る(いっしょうこうなりて、ばんこつかる) 说起来容易做起来难——言うは易く、行うは難し(いうはやすく、おこなうはかたし) 以毒攻毒——毒を以って毒を制す(どくをもってどくをせいす)

第二类

垂头丧气——「青菜に塩」(あおなにしお)

功到自然成——-「石の上にも三年」(いしのうえにもさんねん)

满瓶不响,半瓶叮当——-「空き樽は音高し」(あきだるはおとたかし)

火烧眉毛——-「足下に火がつく」(あしもとにひがつく)

马后炮——「後の祭り」(あとのまつり)“事后搞庆祝活动”

八九不离十——「当たらずといえども遠からず」“虽然没有说准,但也离得不太远。” 昙花一现——「朝顔の花一時」(あさがおのはないちじ)“短暂的美”。

未雨绸缪——「転ばぬ先の杖」

聪明反被聪明误——「策士策に溺れる」(さくしさくにおぼれる)

多一事不如少一事——「触らぬ神に祟りなし」(さわらぬかみにたたりなし) 久居则安——「住めば都」(すめばみやこ)

天无绝人之路——「捨てる神あれば助ける神あり」(天上的神很多,有的神不救你,有

的神会救你,不是所有的神都不救你)

英雄出少年——「栴檀は双葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)

(「栴檀(せんだん)」是指“白檀”,「双葉(ふたば)」是刚刚发芽时的

两片叶。是说檀木刚刚发芽就散发香气,表示英雄人物从少年时就出众。

宰鸡焉用牛刀——「大根を正宗で切るなかれ」(まさむね)(「大根(だいこん)」是萝卜,

「正宗(まさむね)」是日本传统的武士用的名刀,「なかれ」是“不要„

„做”。意思是说切萝卜不必使用高级的武士配刀。

微乎其微——「雀の涙。」(すずめのなみだ)(麻雀本身就很小,其眼泪就更少了)

可望而不可及

对牛弹琴——猫に小判(ねこにこばん)

(“小判(こばん)”是日本古代使用的金币。对于人来说是很值钱的,但

是对猫来说是没有任何价值的。和中国说的对牛弹琴是一个道理)

亡羊补牢——火事の後の火の用心(かじのあとのひのようじん)

(“火の用心(ひのようじん)”是“注意火头,防止火灾”的意思。发生了火

灾之后,要求人们注意火头,防止火灾,这和丢了羊之后,把羊圈补结实是一

样的。看来是已经受到损失,但是引以教训,也还是有意义的。

丢了西瓜拣芝麻——火事の後の釘拾い(かじのあとのくぎひろい)

(由于日本的屋舍过去多是木材、竹子、纸、草等植物为材料,这样的房屋很

适合于潮湿的日本气候。但是火灾特别多,所以用火灾的损失来告戒人的谚语

就很多。由于不注意而失火,损失了大量财物,事后,再在灭火后的瓦砾里拣

钉子。表示对“失大拣小”的告诫。和中国的丢了西瓜拣芝麻出于一个道理)

娇生惯养——乳母日傘(おんばひがさ)

(由于生活条件优越,家里有奶妈伺候,外出有阳伞遮太阳。没有经过任

何艰苦环境的磨练,结果养成了娇生惯养的习惯。不直接说明娇生惯养,

而是说出它的条件和环境)

真人不露象,露象不真人——能ある鷹は爪を隠す

(真正有本事的人,外表不表现,在需要时才显示自己的本领。在日语在{中日猫谚语论文}.

说“有本领的老鹰平时就把利爪藏起来。”不论中国讲的人还是日本所指

的鹰,有本领的不轻易流露出来。相反,那些喜欢表现自己本领的人往往

是不太有本领的。这一类谚语也很多:中文中有:一瓶子不满,半瓶子晃

荡。半瓶子醋等等。空き樽は音高し(あきだるはおとたかし)(即空桶

在滚动时声音很大,相反,满桶不大发出声响)浅瀬に仇浪(あさせにあ

だなみ)“浅瀬”是“浅滩”,“仇浪”是“喧嚣的浪花”。说水浅时浪花很

大,但是水深时没有浪花,可是真正可怕的是深水。

这山望着那山高,家花不如野花香,家菜不香外菜香。——隣の花は赤い——人の花は赤

い———隣のぼた餅は大きく見える——家の米の飯より隣の麦飯(うち

のこめのめしよりとなりのむぎめし)“隣の麦飯”有的人总觉得别人的

东西好,觉得自己的东西不如别人的而感觉自己吃亏。羡慕别人院子的花

好看;别人家的甜饼(ぼた餅)比自己家的大;甚至自己家的米饭还不如

别人家的麦子饭好吃。这样只是羡慕别人会引起心理不平衡,导致不满,

甚至造成不好的结果。和中文的谚语但是同样的意思。

如虎添翼,快马加鞭 ——鬼に金棒(おににかなぼう)形容本来就好厉害的变得更厉害。

在日本,“鬼(おに)”是身高马大的好厉害的害人的东西(妖怪),“金棒”

是“铁棒、铁棍”。所以很厉害的鬼手上有铁棍,就更厉害了。本来鬼是

害人的,但是这个谚语可以形容好的方面。{中日猫谚语论文}.

山中无老虎,猴子称霸王。河中无鱼虾也贵。蜀中无大将,廖化作先锋。——鳥なき里の

蝙蝠(とりなきさとのこうもり)——鷹がいないと雀が王する(たかが{中日猫谚语论文}.

いないとすずめがおうする)——貂なき森の鼬(てんなきもりのいたち)

形容没有社会公认的强者,差的也来称王。“里”本来是故乡,乡下;在

这里指的是山村,如果这里没有鸟,就有蝙蝠(こうもり)来称王。天空

没有老鹰,麻雀称王。森林里没有凶猛的野兽如貂(てん)之类,黄鼠狼

(鼬——いたち)称王。

当局者迷,旁观者清——傍(岡)目八目(おかめはちもく)

(在别人下围棋时,在旁边观战,容易看清胜败局势,甚至能看到8步以

后。说没有利害关系的第三者看问题就冷静而比较正确。由于“傍”、“岡”

同音,有时可以互换)

在家是条龙,出门是条虫——内弁慶の外鼠(うちべんけいのそとねずみ)

“弁慶”是日本古代的武将,成为强者的代名词。这里是笑话那些“在家

里显得很强壮,什么都不怕的样子,可是一到外面,就象老鼠一样胆小”

的人。和这个意思一样的还有:

“内広がりの外すぼまり”(うちひろがりのそとすぼまり)在家耍威风,

到外面就缩在一起什么也不敢干。

“内弁慶の外地蔵”(うちべんけいのそとじぞう)“地蔵”是日本各地(主

要是小城镇和村庄)的路边立着的石制的僧象。在家像“弁慶”那样强有

力,而在外面就象立在路边的“地蔵”一样,一动不动。

“家の前の痩せ犬”(うちのまえのやせいぬ)很瘦的狗没有力量和凶狠

的强狗争高低,但是仗着在自家门口,就大声吼叫。

大草包——独活の大木(うどのたいぼく)“独活”是一种多年生的草本植物,中文叫“土

当归”。嫩时可以食用,可以长到2m以上,但是没有用处。形容个子很

大,但是没有能力的人。

恋恋不舍——後ろ髪を引かれる(うしろがみ)人往前走,有人在后面拉着头发。表示心

里总有牵挂,不能彻底了掉。

半斤八两——団栗の背比べ (どんぐりのせいくらべ)中国旧称是16两,半斤就是8

两,所以表示2个事物一样,没有高低。団栗(どんぐり)是“橡子儿”,

是橡树上结的果实,一个个圆圆的,都差不多大,无法比较哪个个高(せ

いくらべ=比个高),也是表示不相上下,彼此彼此。

五十歩百歩(ごじゅっぽひゃっぽ)——五十步笑百步。

目くそ鼻くそを笑う(めくそはなくそをわらう)==眼屎笑话鼻屎。

大同小異(だいどうしょうい)==大同小异。

巧媳妇难为无米之炊——無い袖は振れぬ(ないそではふれぬ)再有本事的巧媳妇,没有

米也做不出饭来。古代人的袖子很长,所以有“拂袖而去”的表现。但是

如果没有袖子就无法拂袖了。如果没有,想做的事情也做不了。

無い知恵は出せぬ(ないちえはだせぬ)==没有能拿得出的智慧。

できない相談(できないそうだん)==无法进行的商谈

隔靴搔痒......二階から目薬(にかいからめぐすり)隔靴搔痒”是表示在进行无效劳

动。隔着靴子搔痒不能止痒,从二楼滴眼药水,不知道滴到哪里去了,肯

定没有效果。远水不解近渴。

天井から目薬(てんじょうからめぐすり)==“天井”是房屋的天花板,

从天花板滴眼药水,也是肯定没有效果。

遠火で手を炙る(とおびでてをあぶる)==天冷了,在火边烤手取暖,

{中日猫谚语论文}.

如果用远处的火烤手,就取不了暖。

月夜に背中炙る(つきよにせなかあぶる)==想靠月亮的热烤暖脊背。

骑虎难下——乗りかかった船(のりかかったふね)在河里,乘着船,想下来也下不来。

表示前也不是,后也不是,两头为难的情况。和中国话的“骑虎难下”是{中日猫谚语论文}.

一样的。

渡りかけた橋(わたりかけたはし)走到一半的桥只能硬着头皮走下去。

中日猫谚语论文篇三

中日谚语比较

53

日本人と中国人の世間観―─諺に見られる

言語表現からの検証と考察─―

黄 欣

0.はじめに

一般に、言語表現の上から、その言語を使用する民族集団の文化的特色を見 て取ることができる。特に、日常生活から生まれ、民衆の知恵の結晶として使 われてきた諺は、各民族それぞれの伝統的な物の見方・考え方を濃厚に反映し ている。元来、諺は民衆の知恵の総合とも言うべきものであることから、異な った民族の諺でも、形式から内容まで共通性をもっているものもあるが、諺は 各民族の民衆によって作り出されたものであり、各民族の歴史、地理環境、生 産活動および人々の生活習慣、思考の方式などに差異があるため、各民族の自 然観、世間観、人生観などの面にその民族固有の特性、文化の特色が見られ、 諺にそれが反映されている。本稿では、日本と中国の諺を分析し、諺に見られる

言語表現の上から両国の人々の世間観の特徴を検証し、考察していく。

なお、本稿では主として日本の諺をもとに、それと対応する中国の諺を取り 上げて比較するが、中国の諺の中でも漢民族の諺を、また特に、両国でも一般 の民衆たちによく知られ、生活の中でよく使われている諺を取り上げる。同時 に、日本と中国それぞれの独自の諺も考察の対象とする。

1.諺について

1.1. 日本の諺の定義

諺の定義については、藤沢(1960)によれば、日本の諺には広義と狭義の二 種類の定義があるとし、「広義とは、どんなことばでも、一定の形をとって、俗

間に伝唱されれば、みなことわざである」1 としている。藤沢によれば、日本語

の慣用句、歌謡、なぞは、すべて諺ということになり、「ただ一つの形容詞であ

っても、それが一定の形をとって、常にある種のことがらを形容するものとし て知られていけば、それはすでにことわざである」2 とまで述べている。 54 黄 欣

狭義の諺について藤沢は、「ある種類の教訓、警戒、風刺、またはその他の視 察経験による知識をいいあらわしたものである」3 としている。これについて、 金子(1969)は次のように説明している。

ことわざは……民衆の中からいわばおのずから生まれ出たものである。… …民衆がその体験によってみずから得た教訓なのである。……いわば、民 衆同士が肩を叩いての忠言、助言である。4

ことわざは、民衆がその実際生活の体験の中から、人間や人生に対する

批評として生み出したものであり、また逆に、人間や人生を批評する場合 にも用いられるものである。5

すなわち、諺は民衆により作り出された教訓であり、民衆同士の間の忠誡のこ とばであるが、この点について金丸(1983)は、「ことわざは、日常経験から生

まれた民衆の知恵の結晶であり、民衆の行動の指針と言えます」6 と述べている。

1.2. 中国の諺(Ñ 栌)の定義

中国では、諺は一般に“ ”とか“ ”とか、あるいは“ ”とか呼ばれ

ている。近代になって、中国の諺にも広義の定義と狭義の定義がある。広義の 諺とは、人々の話し言葉に広く伝わっている俚諺、俗語のすべてを指すという 見解であり、慣用語、歇後語などをもそれに含まれる。狭義の諺については、 近代では多くの先行研究で郭紹虞の定義が採用されてきている。郭(1948)は、 諺とは、人間の実際の経験の結果であり、美しい語彙を用いて表現され、 日常会話で、自由に使われて、人間の行為を規定する言語である。7

と定義している。80 年代に入ると、狭義の諺の定義について、いくつかの見解

が現われた。

武占坤、馬国凡(1983)は、

, , ,

, “ ”。8(諺と

は、だれにも分かりやすく簡潔で、生き生きとした韻文または短文である。 諺は、一般に口語の表現形式によって民間に広く用いられ伝えられるもの で、民衆が生活上の体験や感動を表現する一種の「既成語」である。) 日本人と中国人の世間観 55

と定義し、そして唐啓運(1981)は、

, 。9(諺

とは、熟語の一種であり、民衆の間で話し言葉として広く流布している固 定的な既成語である。)

, ……

。10(諺は、民衆の知恵の結晶であり……さまざまな経験が簡潔に、 力強く総括されたものである。)

と解釈している。これらの定義に共通していることは、諺が民衆の実際の体験 を総括したものであって、体験を伝えることを目的としているという点である。

また、温端政は、「ことわざには、もう一つ別の働きがある。それは、客観的な

{中日猫谚语论文}.

事柄についての認識を伝えるという役割である」11 と述べている。

以上から、中国語において諺( )は、民衆によって作り出され、民衆の

知恵、経験、認識を広く伝え、比較的固定的であって、簡潔で口語性の強い話 し言葉であると定義することができよう。

1.3. 両国の諺の定義における共通点

両国の諺の共通点をまとめてみると、次のようになる。

① 特定の作者がなく、民衆に作り出され、経験や認識を伝えるものである

こと。

② 古くから口伝えによって伝えられてきて、継承されてきたものであるこ と。

③ 簡潔で通俗的であり、口語性が強いものであること。

④ 比較的定形性を有すること。ただし、その定形性は相対的なものであり、 構造上かなりの融通性があること。

⑤ 民族の歴史や風俗、文化と深くかかわっているものが多いこと。 1.4. 諺と世間観との関わり

以上述べたように、日中両国において、諺の定義には共通点が多く存在して いる。諺は社会に生活する多くの人々の共通感覚として、名も知れない民衆に より作り出され、多くの人々に用いられてきている。諺には人々が自然や社会 的実践から得た経験や認識を表わすものが多いので、諺を分析することによっ 56 黄 欣

て、自然や社会に対する人々の見方・考え方が窺い知れる。加えて、諺はその 民族の歴史や風俗、文化と深くかかわっているものが多く、その民族特有の民 族性が濃厚に反映していることによって、日本と中国の諺から両国の人々に特 有の世間観も窺い知ることができよう。

2.世間観について

人間と社会の関係について、四つの議論があると指摘されている。すなわち、 ①社会は個人の集合体であるが、個人は社会より重要な単位であると考える個 人主体論、②社会は個人の総合以上のものであると考える社会有機体論、③個 人と社会は互いに関係し合うと考える個人社会相互論、④個人と社会は対立す る概念ではなく結局は同じもの、あるいは次元の異なるものとして対置すると 考える融合論の四つである。12

2.1. 日本人の世間観

穴田(1982)は、個人と社会について日本人は、「社会は個人の総合以上のも のであるという社会有機体説のように、極端ではないにしろ、社会優位の行動 傾向を有する国民であるとされている」13 と指摘している。この日本人特有の 世間観が、諺にどのように反映されているのかについて検証してみよう。 例えば日本の諺には、次のようなものがある:

壁に耳あり障子に目あり

旅の恥はかき捨て

あとは野となれ山となれ

これらの諺からは日本人の社会に対する見方や考え方が窺い知れる。すなわち、

「壁に耳あり障子に目あり」は、日本人は行動するときに、いつも他人あるい は社会が自分をどう見ているか、社会にどう思われているかということが気に なり、自分の行動が他人の目に左右されることがあるが、ここで言う「他人」 とは身近にかかわりのある「他人」のことである。だからこそ、身近にかかわ りのある「他人」の範囲を超えた他人や社会に対しては、「旅の恥はかき捨て」 や「あとは野となれ山となれ」となるのである。

文化人類学者ルース・ベネディクトは、文化には「罪の文化」と「恥の文化」

の二つのパターンがあるとし、その書『菊と刀』において、日本文化について 日本人と中国人の世間観 57

言及し、結論として日本文化は「恥の文化」の代表であるとしている。この知 見は、現在ほぼ定着している。ベネディクトが指摘したように、日本人は行動 の根幹に常に身近にかかわりのある他人を意識し、その他人に対して恥かしい という意識が行動を起させたり止めさせたりするのである。日本人が罪の意識 よりも恥の意識を重視するのは、武士階級成立以来の伝統と幼児期から恥を強 調する教育を続けてきたためとベネディクトは見ている。この「恥」に関する 諺は、日本には相当数ある。例えば、

恥は家の病

恥の上塗り

仰いで天に恥じず

言わぬ心に恥じよ

恥を言わねば理が聞こえぬ

恥を知らねば恥かかず

恥を知る者は恥かかず

聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥

などは、いずれも「恥」に関する日本人の考え方を表わしており、日本人の心 性の中には身近のかかわりのある他人に対する「恥を恐れる」という心理が根 深く存在していることが分かる。上にあげた諺のほかにも、次のようなものが ある:

石橋を叩いて渡る

「石で作られた橋であっても叩いて、大丈夫だと確かめてから渡る」という 意味である。はたから見ると滑稽な感じがするが、すべての物事に対する日本 人の用心深さがみごとに表現されている。これはやはり上に述べたように、日 本人は恥を恐れ、常に他人の目が気になり、他人に笑われないように行動する という特性がよく現われている。日本人の国民性とも思われる恥を恐れる心理 はまたいくつかの諺から見てとることができる。例えば、

転ばぬ先の杖

濡れぬ先の傘

念には念を入れ

などのようなものがそれである。

58 黄 欣

そして、社会全体を見れば、日本人は、

渡る世間に鬼はない

という世間観をもっている。すなわち、冷たいように見えても、人の情という ものはあるものである。このような楽天的な世間観は、日本の自然環境と歴史 環境に由来するものと考えられる。

日本は地理的な環境によって、古くから豊かな自然条件に恵まれてきた。周 囲を海で囲まれ、気候は海洋性気候であり、温暖、湿潤がその特徴である。こ のような気候条件は生業にすぐれた条件を与えてきた。恵まれた自然環境のも とで暮らしてきた日本人が自然に対して、自然はそのままが一番美しいとする のは当然のことであり、世間に対しても、世間には悪いことはなく、悪い人は いないと認識するのである。そして、地理的に周囲を海で囲まれ、世界から隔

てられている自然の条件によって、日本は異民族による軍事的な侵略、政治的 な支配はほとんど受けてきていない。単一民族が一つの島国に居住し、鎖国や 長い封建制度によって、社会は比較的安定していた。このことからこの日本人 独特の世間観を表わす諺が産み出されてきたのであろう。言うまでもなく、「渡 る世間に鬼はない」とは正反対に、

渡る世間は鬼ばかり

という諺もあるが、それは、世間は常に変化しつつあるものであって、よい面 だけでなく、悪い面もあるという認識が反映されている。

また、日本には次のような諺もある:

言わぬが花

見ぬが仏聞かぬが花

見ざる聞かざる言わざる

これらの諺から日本人はストレートな伝達をできるだけ避け、腹芸や以心伝心 というように非理論的な読みを重要視する志向性がうかがわれる。すなわち、 日本人の好みの中に「以心伝心」があり、あまり口数多くしゃべるのをよしと しない価値観がある。黙っていても自ら心が通じ理解し合えることが日本人の 理想なのである。

以上のほか、日本の諺には、「うそ」に関するものも尐なくない。うそは悪い 日本人と中国人の世間観 59

ものであるが、場合によって方便ともなる。方便とは仏教で衆生を教え導くた めの手段のことであるが、

うそつきは泥棒の始まり

というように、うそは偽りの最も有用な手段であり、うそをつかない習慣を養 わなければ、盗みをする恐れがあるという警告である。その一方で、 うそも方便

とか、

うそは世の宝

というように、うそをつくのはよくないが、物事が円滑に遂行していくために はうそをつくことも必要であるという、うその功能を説いている。 2.2. 中国人の世間観

一方、中国人は伝統を重んじる国民であるが、伝統主義は保守主義に転化し やすい。中国人は絶えず社会や経済生活に調和を見出そうとし、もっとも安全 でかつ持続性のある自己保全の方法を求める。このことによって、 , (世の中のことは冷静であってはじめてわかり、人

情は淡白であってはじめて長続きする)

(大樹のそばを離れなければ、焚く薪に困らない)

, (人への便宜は自分への便宜)

というような諺が産み出されることとなったのであろう。そして、中国人は長 い歴史の中で、社会なるものを見てきた結果、

, (世情は冷暖を見、人面は高低を逐う){中日猫谚语论文}.

のような冷たい世間への感慨や、「世間」と「人情」をどのように把握するのか

ということについての指針が諺によって示されてきている。また、世の中で生 活していくためには、

中日猫谚语论文篇四

中日英三语中谚语对比论文

中日英三语中谚语对比论文

摘要:谚语的语意特征或者修辞特征往往受历史背景,社会因素,地理特征,生产方式等的制约。正如上文中的用例所证明的那样,汉语的谚语中有着中国历史、社会、地理的烙印,而日语的谚语中也有着日本历史、社会、地理的烙印。英文的谚语也是同样的。谚语的对照研究不仅要考虑到其表现形态上的特征,更要将形态特征背后存在的历史性,社会性,地理性因素也划入考虑范围之内。真正的语意特征,修辞特征研究,一定不能忽视掉其历史性、社会性、地理性因素的作用。

1.引言

关于日语中「諺(ことわざ)」一词的语源,本居宣长的《古事记传》中说,「こと」是「言」,「わざ」是与「童謡(わざうた)·禍(わざわい)·俳優(わざおぎ)」等的「わざ」相同。祭拜神灵或者死者称作「もののわざ」,而神借人之口说出来的话叫做「ことわざ」,是神将心意借人之口说出以谕吉凶。然而逐渐地「ことわざ」变成了指自古流传下来的老话。与宣长的这个说法相近,折口幸夫说「わざ」是寄宿了神意之物,而寄宿了神意的词就是「ことわざ」了。因而ことわざ是被施与了神灵精气的言语。另一方面,藤井乙男在『諺の研究』中,有这样的记述——“ことわざ(谚语)是与しわざ(行为)相对应的词,有‘说话技巧’的意思”。柳田国男在『民俗学辞典』中说、諺是「言語の技術、コトワザの意」(语言的技巧,即コトワザ)。

中日猫谚语论文篇五

关于猫的谚语

A cat has nine lives.

猫有九条命。(英国迷信, 指猫的生命力强)

A cat in gloves catches no mice. (=Muffled cats catch no mice.)

[谚]带手套的猫捉不到耗子; 四肢不勤, 一事无成; 怕沾污手指的人做不出什么事。

A cat may look at a king.

[谚]猫也可以看国王(指小人物也应有些权利)

agree like cats and dogs

[口]像猫和狗一样合不来, 完全合不来

All cats are grey in the dark. (=At night all cats are grey; when candles are out, all cats are grey.)

[谚]猫在暗中都是灰色; 黑暗中难分丑妍

as weak as a cat (=as weak as water)

身体非常虚弱

copy cat

盲目的模仿者

enough to make a cat [horse] laugh

极其可笑; 让人笑掉大牙

enough to make a cat speak

{中日猫谚语论文}.

[口]令人惊讶; 事情太出奇

fat cat

美国政治运动的出资人, 捐献大宗政治款项的富人; 安于现状的懒汉; 以权谋私的人, 享受特权的人

Has the cat got your tongue?

[口]猫把你的舌头叼去了吗?为什么不吭声?

It rains cats and dogs.

下倾盆大雨, 大雨滂沱

let the cat out of the bag

说走了嘴, (无意中)泄露秘密

like a cat on hot bricks

局促不安, 如热锅上的蚂蚁

live like cat and dog

[口]整天吵架

old cat

脾气坏的老太婆

see [watch] how [which way] the cat jumps (=wait for the cat to jump)

观望形势然后行动; 看风使舵, 随机应变

That's like putting the cat near the goldfish bowl.

引狼入室; 等于把猫放在金鱼缸旁。

The cat did it.

[口谑]是猫打破的; 不是我搞的。(推托责任的话)

The cat is out of the bag.

[口]秘密泄露; 真相大白。

The cat jumps.

[口]形势清楚了。

The cat shuts its eyes when stealing cream.

[谚]掩耳盗铃; 猫偷吃奶油的时候, 总是闭着眼睛。

The cat would eat fish and would not wet her feet.

猫儿想吃鱼, 又怕湿了脚(想吃鱼又怕腥; 想得到某种东西又怕麻烦或担风险)。

The scalded cat fears cold water.

[谚] 被烫过的猫, 连冷水也怕(一朝被蛇咬, 三年怕井绳)

Watch sb. as a cat watches a mouse.

象猫盯耗子般地盯着某人。

When the cat's away, the mice will play.

[谚]猫儿不在,老鼠成精(大王外出, 小鬼跳粱)。

Cats hide their claws.

知人知面不知心。

A gloved cat catches no mice

戴手套的猫,老鼠抓不到。(不愿吃苦的人成不了大事业。)

There are more ways of killing a cat than by choking it with butter

杀猫的办法很多。(达到目的的途径很多。)

Care kill a cat

忧虑愁死猫

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